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2026年01月

対馬市の人口はいつから減り始めたのか、改めて考えてみる

対馬市の人口はいつから減り始めたのか──この記事では、国勢調査をもとにした「減少の始まりの年」、そして周辺市町村や人口規模が近い自治体との比較を通して、対馬市の減少傾向の特徴を掘り下げていく。

昭和35年という転機を軸に、島の地理や生活インフラ、観光地との関係も交えながら、人口減少の背景を個人視点で読み解いてみた。

一番しっくりくるタイミングはいつか

対馬市の人口が減り始めたのはいつか。
いろんな資料を見て、自分なりに腑に落ちた答えがある。それは「1960年、昭和35年のあと」。

国勢調査の流れで見れば、1960年あたりをピークに、その次から人口がじわじわと減っていく。
減少の出発点は昭和35年の次の調査年と見るのが自然だと思っている。

ただ、「ここからです」とピタッと一点に決めるのは少し違和感がある。
島の人口って、数字の変化よりも生活の変化のほうが先に起きることもある。
昭和35年を境に、島外へ向かう動きが太くなっていった。だから、その流れの中で人口減少が定着していった、というほうが実感として近い。

 

昭和35年が境目に見えるのはなぜか

減り始めたら戻らなかった、その特徴

対馬の人口は、いったん減少に入ると、回復することがなかった。
「減ってまた増えた」ではなく、「減ったらそのまま下り続けた」。
この一本の下り坂の長さが、かえって減り始めの起点を際立たせているようにも見える。

国勢調査の数字だけ見れば、単純にピークの次から下がっていればそこが始まり。
でも私は、数字の折れ線ではなく、そこに暮らす人たちの選択や動きを含めて捉えたい。

島の玄関が遠いという現実があったのでは

対馬は、空港や港を通らないと島の外に出られない。
対馬やまねこ空港、厳原港、比田勝港。いずれも玄関口としては機能しているけれど、「出入りに手間がかかる」ことに変わりはない。

そして島の中心を通るのは国道382号。
厳原から北へ一本通っていて、生活の大動脈のような道になっている。
ただ、それが「便利だから残る道」ではなく、「その道を通って出ていく道」になってしまう瞬間がある。進学、就職、転勤。どれも外向きの流れを支える要素だ。

私はこの道路の一本感が、人口減少の方向性に拍車をかけたんじゃないか、と見ている。

 

場所の名前を出すと、人口の話が急にリアルになる

厳原に集まる暮らしの合理性が周辺を静かにする

対馬の生活インフラは厳原に集中している。
市役所も病院もスーパーも、まずは厳原。対馬市役所、長崎県対馬病院、マックスバリュ対馬いづはら店。名前を挙げていけば、なるほどな、と思う。

便利な場所が強くなれば、当然それ以外の場所は静かになっていく。
通院も買い物も、車がなければ不便。バスの本数が減れば、それだけで生活の選択肢が狭まる。
周辺の集落は、誰かがいなくなったら、戻る理由もなくなる。
こういう静かな変化が、数字に表れる前に暮らしに染み出してくる。

対馬には観光の魅力があるけれど

観光で訪れるなら、対馬にはたくさんの魅力がある。
金田城跡、万関橋、烏帽子岳展望台、和多都美神社。景色も文化も濃くて、たしかに見応えがある。私自身も行ったことがあって、その強さはわかる。

でも、観光と定住は別の論理で動いている。
観光は「来る理由」があればいいけれど、定住は「暮らし続ける理由」が必要になる。
道路、病院、スーパー、職場、学校。全部そろって初めて定住になる。
そのハードルは、思っている以上に高い。

 

周辺の市町村と比べて、対馬の減り始めの位置を知る

島同士でも時計の進み方が違う

対馬だけを見ていてもわからないことがあるから、周辺の島にも目を向けてみた。

たとえば壱岐市や五島市は、対馬より少し前にピークを迎えて、そこから人口が減り始めたとされている。
つまり、同じ「離島」という条件でも、減少が始まった時期はバラバラなんだ。

対馬の減り始めは1960年。
壱岐や五島は1955年あたりで山を迎えている。
この差は、産業構造の違いだったり、本土とのアクセスだったり、いろんな要素が絡んでいるんだと思う。
対馬は少しだけ減り始めが遅かった分、坂が長くなった。その可能性はあると思っている。

 

人口規模が近い市と比べると見えてくること

規模が似てても減り始めはまったく違う

対馬と人口が近い自治体を調べてみたら、大分県の杵築市、奈良県の宇陀市が浮かび上がってきた。(市町村人口ランキング
どちらも今は対馬と同じように3万人前後の人口になっている。

けれど、減り始めた年を見ると全然違う。
杵築は1955年ごろから下り坂に入っていたらしいし、宇陀はむしろ1990年代半ばがピークだった。

数字が近いだけで同じ土俵に立っているわけではない。
出発点が違えば、下り方も違う。ここが重要なポイントだと思う。

杵築市との比較で気づいたこと

杵築は城下町としての顔があり、観光にも力を入れている街。
大分市や別府市にアクセスしやすい場所でもあって、生活圏が本土の中で完結する構造がある。

でも、そんな杵築ですら人口が減っている。(杵築市の人口について
それを見て、「対馬だけの問題じゃないんだな」と思った。
国全体の構造が、すでに人の流れを都市集中へ向けていた。だから、島はもっと早く、もっと急に影響を受けた。

宇陀市との比較で感じたこと

宇陀市は奈良県の東の山間部にある。
道の駅があったり、室生寺のような観光地もあったりして、訪れる理由はそこそこある。

でも、減り始めたのは1995年くらい。かなり最近まで持ちこたえていた。
それでも一度下がり始めると、3万人を切るまでが速かった。(宇陀市の人口推移について
このことが逆に怖い。
対馬は長い時間をかけて減ってきた。宇陀は短期間で減った。その違いが、地域にとっての受け止め方や備え方にどう影響するのかは気になるところ。

 

もう一度、自分の言葉で結論を置いておきたい

国勢調査から読み取れる一つの区切り

対馬市の人口が減り始めた時期については、やっぱり1960年、昭和35年の次。
これがデータ上ではいちばん納得がいく答えだと今は思っている。

でも、そこに私の感覚も重ねておきたい。
数字の切れ目だけじゃなくて、生活の流れとしての変化。玄関の遠さ、移動の選択、施設の集中、観光と定住の分離。そういう実感の積み重ねが、「減少が定着していった理由」になっているような気がする。

同じ人口でも、減少の背景はそれぞれ違う

壱岐や五島と比べると、対馬の減り始めは少し遅い。
杵築はもっと早くから減り始め、宇陀はずっと後から下り坂に入っている。

このバラつきを見て思う。
同じ人口でも、同じタイミングで同じ問題に直面してるわけじゃない。
だからこそ、対馬は「なぜこの時期に」「なぜこの形で」減り始めたのかを、地図や道や施設を重ねながら丁寧に考える価値がある。

私は、昭和35年をただの折れ線グラフの折れ目としてではなく、島の暮らしが外へ向かって回り出した「気配の始まり」として見ておきたい。
まだ仮説の域を出ないけれど、今のところそれが一番しっくり来ている。

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対馬市   2026/01/01   諫早開発陣